こんにちは!
お元気ですか?
2020年11月、東大の駒場祭にて落合陽一さんのトークイベントが開催され、しかもコロナ禍のおかげでYoutubeライブで誰でも視聴できるという神対応! 拝見しました。視聴者は300人くらい。
めっちゃ面白い講演でした! 内容もだけど、最後の質疑応答が最高ww 学生スタッフが寄せられた質問を読み上げるも、終了時間が迫る中で落合さん自らYoutubeコメント欄を読み始めて質問に全部答えていく大胆さに、腹抱えて笑いました(笑)
さて、前置きが長くなりました。
今回は、2020年8月に鑑賞した落合陽一さんの個展の感想と、写真や展覧会の文章なんかを掲載させていただければと思っています。
2020年8月23日鑑賞
落合陽一
未知への追憶
イメージと物質 || 計算機と自然 || 質量への情憬
- メディアアーティスト・落合陽一の個展
- 作品と写真と文章から「落合陽一の感覚を共有する」ような、一人称の説明が主観で綴られてとても興味深い!
- 掲示されたテキストの単語選びや言葉遣いなど、語感がとにかく凄い!
- ハイテクを研究しつつローテクやデッドメディアも好み、技術と自然を親和的に眺めているところが好き。
「未知への追憶」は、2017年から2020年までの落合陽一氏の活動を俯瞰した個展となっています。2019年の「質量への憧憬」展以来の大規模な個展で660平方メートルを超える面積に、平面・立体・メディアアートを含む40点以上の作品が出展される予定です。
展覧会サイト
個展「未知への追憶」によせて
展覧会:未知への追憶 -イメージと物質||計算機と自然||質量への憧憬-
会 場:渋谷MODI
会 期:020年7月23日~9月27日
料 金:1,800円
2020年に開催された、研究者・メディアアーティストの落合陽一さんの個展を鑑賞しており、その感想です。
落合さんはとても好きな作家さんで、なんだかんだで個展とかだいたい追えているのでラッキーだし、有り難いことです。
とはいえ。
とはいえ、落合さんの考えていることはあまり理解できていないです(笑) 落合さんのことを理解するには相当な教養と専門知識のどちらも必要でしょうから、それは難しい…。でも、とても面白いし興味深いので好きなんです!
それに、個展について「ボーッと眺めるのも良い」と言ってくれたり、TVやインタビューの時と研究者同士で話す時と、相手に合わせて話すなどそういうところが大変有り難いです。
今回の個展「未知への追憶」。
「落合陽一の感覚を共有する」ことがひとつ大きな意味なのだと思いました。
展示作品の説明や落合さんのコメントを読むと、「◯◯が好きだ」とか「△△を考えている」とか「□□と思う」とか「☆☆を見る」とか、一人称で”落合陽一自身”の考えているものとか感じていることを置いていっているようでした。
あと、写真も。
写真って「その人が何を見ているか」とか「どこでシャッターを切ったか」とかが分かるもので、しかも個展では「展示するために選んだ」という視点が加わり、かつここでも落合さん自身のコメントが付いていました。
得てして個展というのは「作家のこと」が分かるものかもしれませんが、今回は落合さんの主観が色々と見られた気がしてとても良かったです。
落合さんの凄いところのひとつは語感だと思います。
月並みな感想ですけど、「言葉の選び方」がすごく上手だと毎回思ってます。正直、言っていることは半分も理解出来ていないし噛み砕いて説明するのも難しいですが、読んでいて・単語を眺めていて、とても好きなんです。
「陽一」という名前に始まり、テクノロジー畑の出身者でありながら、アーティストとしても活躍されていて、しかも文系学問の知識も膨大で、本当に凄い方です。
そういう、あらゆる方面に造詣が深いから、言葉の使い方とか単語の選び方とか文章のニュアンスとかがとても繊細で難しいけど気持ちいいな、と感じます。
質量・霊性・情念・民藝・のような、およそサイエンティストが使わなそうな単語を選んで使うのもそう。特に、落合陽一さんが提唱する考えの基となる「計算機自然」とか「山紫水明」とか「事事無礙法界」とかが凄いです。西洋的なカタカナ用語の意味を損なわずに東洋的な文脈で漢字で表記することとか、本当に凄いです。
落合陽一さんの作品も研究も好きだけど、中でも価値観とか考え方とかが非常に好きです。最先端のテクノロジーを駆使しながらローテクなものやデッドメディアも好んでいるというか、二項対立的に扱われがちな技術と自然を親和的に眺めているところとか。
「計算機自然《デジタルネイチャー》」とかまさにそうでは。
落合さんの筑波大研究室の名前でもあります。漢字表記だとわかりにくいですけど、「計算機≒コンピュータ」と読み替えてカタカナ語だとイメージが伝わりやすいのでしょうか。
落合さんの著作での定義は以下の通り。
高度に発達したコンピュータは、社会に偏在する段階(ユビキタス)を経て、自然と融合した新しい生態系として地球上を覆い尽くすことになるだろう。本書ではこのヴィジョンを計数的な自然》または《計算機的な自然》あるいは《デジタルネイチャー〉と呼ぶ。(p.13)
落合陽一(2018)『デジタルネイチャー』
あるいは次のようなもの。
「未来の世界を表す固有名詞」が必要になります。それこそデジタルネイチャーなのです。(p.180)
人為と自然が同時に併存するような場所こそがデジタルネイチャーなのです。…[中略]…アナログvsデジタルのような二分法に陥らずに、人間とコンピュータの共生関係を考えるための現実的なフレームワークなのではないかと思います。(pp.198-199)
落合陽一(2017)『魔法の世紀』
展示作品でもそう。
写真を印刷したり、風景を利用して取り入れたり。壊れた機械が置かれていたり。会場内に液晶ディスプレイは一枚も無かった気がするけど、ブラウン管テレビは山積みになっていたし。というか数世紀前のゾートロープが作品に取り入れられたり。
一方でシャボンの薄膜を超音波で振動させて映像を投影したり、音声ガイドはYoutubeでのストリーミングで公開されていたり。あるいは畳を敷いたり。やっぱり面白い空間だなって。
あと、写真の印刷とか作品の制作について「イメージを物質の形に封印する」とか、「質量に保存する」みたいな表現をしているところがとても好きです。
フィルムカメラの時代はネガの現像という物質化の工程がありましたが、今のデジカメやスマホで写真撮影をする時代においてはデータ保存が多いと思います。かくいう私も基本はデータ管理だし、誰かに渡したり贈ったりする時にプリントアウトするくらい。あとは説明資料として印刷とか。
なので「質量に保存する」という考え方はとても好きだな~と。(ただし落合さんの場合は500年保存できるプラチナ・プリントだから意味合いが違うのかも)
関連すれば「解像度」の話も落合さんが色々と語っているものですけど、それも同じく様々に思うことがあります。
展示作品や文章などです。
落合さんの作品は、やっぱりテキストがとても大切だと思うので、出来るだけそのまま沢山載せました。作品はいくつか選んでの掲載です。
また、音声ガイドの代わりとしてYoutubeのオーディオ動画が公開され、展示に合わせて掲示されていました。
展覧会そのものが写真撮影OK・SNS投稿OKだったので、かつ公開されているものなので、このブログでも掲載させていただいています。(もしダメなら連絡ください)
展覧会ステートメント
挨拶
知らないはずのことを知っていると思うことがあるのはなぜだろう,
覚えていたはずのことを忘れているのか, 記憶の中に記憶していない未知なる何かが潜んでいるのか,
記憶の中で時間を忘れて生きることはできるだろうか.
デジャヴを探し続ける感覚をなんと表現したらいいだろう.
記憶と混ざり合う外界の刺激, そうやって自分の精神と物質的世界の間が溶けた領域にまだ見ぬ風景の姿を探している. それを未知への追憶と呼んで心のどこかで愛でている自分がいる.
そんな視点を共有する一つの旅路を用意した。 ぜひ楽しんでみてほしい。
落合陽一
はじめに
落合陽一は, 計算機自然(生態系を為すアナログ・デジタル・生物・非生物に囚われない計算機による森羅万象)という世界観に基づいて, 常に新しい森羅万象の様 を風景として観察している. その中で気になるものを拾い集めては社会彫刻のように仕上げたり, 蒐集家のように愛でていたり, 組織作りや仕組み作りを行ったり, 様々な場所で社会科見学を繰り返したりしている. 一見するとバラバラに見える, 「メディアアーティスト・落合陽一」の行動原理と作品の根底は「物化する計算機自然と対峙し, 質量と映像の間にある憧憬や情念を反芻する」と本人が語るように, 太い一本の線でつながっている.
自然・物化, 映像, 物質, そうやって新しい自然と向き合いながら, どう自然に生きられるか, どうやって自然でいられるか,万物との間に分け隔てのない状態をどうやって作るか, ということを様々なハード・ソフトを通じて思考し続けている.
落合陽一
ステートメント
質量と物質、ボケと精微、
映像のようでいて物質であるもの
幽かでいて玄なる根源に近づくもの
イメージ、記憶、認識、人格、
人の持ちうる環世界が
デジタルとアナログを越境し、
物質と非物質の垣根を往来する。
映像と物質の間の探究に、
計算機が存在の物化を促すような
新しい自然の息吹が聞こえる。
波動・物質・知能。
映像・解像度・処理能力。
工業社会以後のヴァナキュラ―、
偏在し寂びた計算機が作る新しい民藝。
人とメディアの作る生態系に、
空間と時間の五感的融合がもたらす、
言語と現象の枠組みを超えた風景の変換。
解像度を超えた風景が、新しい霊性を惹起し、
主体と客体に跨がる新たな風景を作り出す。
物化の過程に零れ落ちた残滓を拾い集め、
壊れやすいものを愛でる蒐集家のように
質量への憧憬を見出していく。
存在の輪廻に乗り切れなかった
解像度の外側の世界を拾い集めては、
呼び名を与える作業に集中する。
文脈を漂白し、記憶も情念も漂白しながら、
無為に近づく意識が整うまで反芻し、
忘却の中で未知を追憶し続ける。
落合陽一
説明
落合陽一はアーティストステートメントに「物化する計算機自然と対峙し, 映像と質量の間にある憧憬や情念を反芻する」と書いている. 「未知への追憶」は2020年に開設した動画チャンネルのシーズンテーマでもあり, 4年間の表現コンセプトを昇華させ, 新しい日常から新しい自然の再発見に至るための探究活動だ. 探し, 吟味し, 新しい文脈を練り上げることで未知を目指す喜びや感動へと変換するために, 過去作品の再構成, 研究や社会活動としての膨大な活動をスナップ写真として切り出すことによって作品に昇華するプロセスを内包している. ぜひ何度か反芻して感じて欲しい.
落合陽一
Ⅰ 映像と物質
映像と物質の間で思考をし続けてどのくらいの時間が経っただろう. 歴史を紐解けば, 映像装置の発明以後, 時間と空間を切り離せるようになった人類は, 映像というイメージと物質で存在する世界の間の橋梁をどう形作るかという問題に長い時間付き合うことになった. 最初のヴァーチャルリアリティの発明から50年以上が経っても未だこの対立軸は消えず, イメージと物質の相転移は再生装置の面でも録画装置の面でも大きな課題が残る. アーティストとして, 研究者としてこの課題に取り組み続けている.
そして一人のメディアアーティストとしては, 映像と物質の変換自体も風景に溶け込み, やがてその橋梁自体も無意味になる日を待っている. そんな時間と空間の間で,映像と物質の間を彷徨い続ける, 移ろいやすいものと確かなものの間に物質を超越した風景を作り出そうと試みることを続けながら.
落合陽一
アリスの時間
時計とその前にあるレンズがセットとなり, 円環状に整然と設置されている, 次々と時計が発光することで, 異なる時間がアニメーションとして連なり, 実在しない奇妙な時間(「鏡のアリス」の世界のような)が壁 面に映し出される. 古典的なエピディアスコープを並べることでフィル ムメディアが存在しない映像装間を構成した. 12の物質的な時計で構成され, 全体でひとつの「時計」のように見える装徴から, 各時計の示す時間が高速で連なり表示されることで実現する, 映像上の「時計」. 「物質から直接に映像を作る」ことで, メディアや視覚について再考させる作品. この作品は, インスタレーションから発せられる光と影によって空間をつなぎ, 鑑賞者や空間自体も映像の一部として, 時間的, 空間的に変換して いく, 開放光学系による古典的映像装置の再発明による気づきを与える. 映像というニッチなテクニウムーこれは3次元的な物質を1次元の円環にデジタル配置する時空間の表現系だ.
落合陽一
コメント
Ⅱ 物質と記憶
メディアアートの不可能性に向き合い続けて10年経った. 同語反復のようなメディアアートという定義の困難さだけでなく, メンテナンスなしでは壊れてしまう”というメディアアートの存在の儚さと価値の消失過程にも思いを巡らせ続けている.
壊れることも作品に内包し続ける. 映像で表現できないものを表現するためにメディアアートを選んだはずが, 映像でしか保存できない時間と空間があるという矛盾の中に生きている. この矛盾が, 物質的に表現されたメディアアートから記憶の意味を強く喚起される理由だろう.
物質で表現されたものを手に取るたびに, デジタルのイメージに変換されることで永続性を獲得するような生存方法を選びえない切なさを感じとる. この切なさに耐えるためにイメージを物質に変換する「プリント」を刷り続けるのだろう, 数百年もつと言われるプラチナプリントを続けることでイメージを物質の形に封印する. 物質の形に封印されたイメージは, 不完全な記憶のトリガーとして生まれた瞬間から憧憬を内包している.
落合陽一
コメント
写真
スナップショットが好きだ. 今この瞬間を捉えてそれを過去にしていく作業の中で, 切り取った一瞬をコンテクストで結んでいく.時間と空間で結実したひとつなぎの現実をキャンバスにして, その瞬間と瞬間の光の寄せ集めで何かを描き 出そうとする作業は, 手触りのある現実と思考を行き来しながらも現実という共 有物を使いながらコンテクストを紡ぐ作業だ. なぜ今この写真がこの場所で選ばれているんだろう, これは誰の手なんだろう, 何につかう装置なんだろう, これは何をしているんだろう, そして何処にいるんだろう, どうしてこの瞬間なんだろう, この形や光が意図するものは何なんだろう. 絡みついた問いかけを繰り返して, 情念と現実が反芻して練り上げられたコンテクストをあえてイメージのみを現前させながら描き出していく. 批評性や社会性のあるものだけを芸術と呼ぶ安寧な領域のことを忘れ, 絵を描くようでいて物語を紡ぎ, 物語を紡ぐようでいて, あくまで現実の世界や社会の中から見つけてきたものだけを現前させる. あるがままの現実を具材に, 言外のコンテクストを追いかけるスナップ写真の形を愛している. 自分自身が多彩な役割を持ち日々社会と対話する中で, その肩書きや役割を忘れ, 一人のメディアアーティストとして, あくまで現前する社会に接続された現実を使って可能性を紡ぐ. 物質の残響がこだまする埃まみれの時代から, 発展途上の夢の未来の姿や, 肉迫するコミュニケーションが喪われた時代の様を, 空間や空中に投射しながら霞む光の情念を重ねていく. 情念の反芻を繰り返す中で現前する現実の中で生まれたコンテクストが勝手に息をし始めた後は, その霊感とイメージの物語を光のこだまの中に求めて彷徨う空間を設計していく. ここでライカを手にして歩き出すこと ができる, 来場者も歩き出したかもしれない, 物語が始まる可能性を感じる空間が作品世界と現実世界を越境して今ここに存在している. この空間そして展示に関わった一人一人のスタッフの皆様, そして来場いただいた皆様に多大 な感謝を込めて.
落合陽一
プラチナ・パラジウム・プリント
プラチナ・プリントです。
写真について題名と一言コメントが付けられていました。ここでは、写真の下に「《題名》コメント」の順で掲載しています。
計算機自然の霊性を考えている. デジタルとアナログを行き来することで霊性を感じる物質性を探す.
(2019)
青を感じるための物質的な追憶
(2020)
壊れゆくものを忘れないために
(2020)
ヴェイパーウェイヴのことを考えながら工業社会を封印する.
(2020)
対数螺旋を計算するために生まれたバイオコンピュータというようなロマンを拾い集めながら.
(2020)
ライカを片手に日々を切り取る. 解像度を高める作品性とは別に歪んだ風景をとるためのレンズで解像度から零れ落ちる情念を探している.
(2020)
計算機自然の視点Ⅰ
枯れた木を見ていると質量を感じる. 質量のない世界では生きも死にもしない木が, その生を終えて乾燥して, 半永久的に枯れ木になる. まるで動物が光を纏っているようだ.
落合陽一
コメント
Ⅲ 情念と霊性
物質から生成されるイメージを捉えて, 計算機で変換する. その変換の際に解像度の議論が常に発生する. 解像度で表現できず取りこぼしたものや, 解像度によって惹起され目覚める新たなものを考え続けているうちに, 解像度から取りこぼした情念のようなものを反芻したり, 解像度によって目覚める霊性にとついて考えたりするようになった. 低解像度から生まれる霊性もあれば8Kのような高解像度の刺激から生まれる霊性もあるだろう. デジタルとアナログが対峙する度に生まれるものを噛み締めている.
落合陽一
風景を切り取る(渋谷)
僕はメディア装置の表現が好きな理由は, 作家の個の消失とコンテンツなき抽象性にある. それはコンテンツ性に頼らず機能的な主体を取り戻し, 鑑賞者に追体験させるメタ機能だ. それは社会批評的文脈とビジュアルデザインの無間地獄が作るパズルゲームを超えたものに思えたのだ. メディアアートの制作で, 風景の一つとして過ぎ去っていく瞬間と時間が物質性を伴って現象に変換され, その展示自体も風景にされて行くと, 一連のプロセスを感じながら過去に変換することが好きたアナログな身体と物理現象の中でそこにあるデジタルを研ぎ澄ます. デジタルでしか見えない世界認識で, 失われつつあるものを切り取り, 手触りを与えるプロセスを通じ, 時間と空間の解像度との対話するときのみ, 自己のアナログな精 武神を実感する. そんな風景とメディア装置に関わる世界認識について, 光学部品や電子部品を用いたキャンパスの上に詩的なプロセスで切り取り, インスレーションの連作で表現しながら風景を様々な場所で切り取り続 けている.
落合陽一
燐光する霊性
風に吹かれる布の姿が好きだ. 自然の見せる姿の中に, この感覚に近しい. ものを探している, 姿形のオリジンを探して, さまざまなモチーフの海をさまよう. 江戸から蓄積されたシルエットや昭和の軍国的なシルエット, その中に彷徨うさまざまなモチーフが消えては生じて, 生まれては死んでいくその生成は鈴の音のようにこだまし, 生命的な起伏を繰り返しては, 1つの波を作る. 風に吹かれる布の振る舞いも, 空気を揺らす音の振動も, 光の反射の作るわずかな揺れも全では1つの波の場に繋がっているようだ. デジタルの世界の輪廻転生も, 生じては消える映像のフォトンも, 時空間の中に点在する記憶を再生し, 風塵の中に姿を隠すコンクリートの持つ反響, 鉄骨の持つ錆びた手触り, 骨と筋肉の運動, 輻の残響. 生命の終わりに描かれる燐光が, 自然の中で信仰を生み出すような瞬間を切り取りたい. ここに生じる内発的で, 自然の内に秘めた信仰は, 僕が育ってきた環境に内包される霊性だろうか. その燐光する霊性をフレームの内側に切り出す.
落合陽一
写真
激動の香港の中で, 光を切り取りながらその様子を眺めている.
(2019)
夕暮れ時の瀬戸内海を眺めていた. 岡山鷲羽・日本
(2019)
中国の深圳でスマホが三枚下ろしになる風景を眺めていた. そのハラワタが売られている棚は計算機自然の魚屋だろうか肉屋だろうか.
(2019)
無人島で海藻の絡みついた流木を眺めていた. 紙垂にも見えるし磁気テープにも見えるそれから自分のルーツに近しい自然の霊性を感じている.
(2019)
Ⅳ 風景論
記憶, イメージ, 物質, 知覚, 時間と空間, 知能, 環世界, 様々な名前で呼ばれる自分の断片を様々な装置を使って拾い集めることで世界とつながっている. 自分が自分と認識する全ての瞬間で, 自分の内なる自然と外なる自然の対峙を調停している. 時には蝶のようにひらひらとしたシルエットを, 滲んだ光の中にぼやけた原風景を探したり, 時には光を切り取って閉じ込めて解像度から抜け落ちたリアリティを探したりしながら日々を歩き続けている. いくつかの自然に向き合う中, 言葉で断絶されたものを映像や写真や立体やプログラムで構成しながら, バラバラになっていく世界の分断を和らげている. 日々を生きる中で, いくつかの対立軸を持ちながら風景を考えることを続けている.
落合陽一
焦点の散らばった窓 / レビトロープ
写真
夕焼けの美しさは光の美しさ. 時間と空間と空気が写真に切り出される瞬間が好きだ. 世界がずっとオレンジだったらいいのに.
(2019)
都市の風景を切り取る. 人と空気が作る様な光景を光で記憶する.
(2019)
波に揺られ, 時を刻み, デジタル社会を祈りながら物質を徐々に風化させていく. 質量ある退廃美の形. 質量への情憬.
(2019)
コメント
Ⅴ 風景と自然
何が何にとっての自然なのかという問いを探し続けることで, 眼前の風景と対峙している. 自然という巨大な計算機と対峙して, 光がさして反射する水面や, 反響する音, 動く群衆, 花咲く草原の草木を見る度に自然という計算について考え続ける. 生物もコンピュータも同じ計算機の有機的側面と無機的側面の使い分けに過ぎないし, 森羅万象を計算で捉え直した世界に見える風景にはウチとソトの区別もなければ, 価値に上も下もない, 全ては全てに対する変換過程にすぎず, あらゆるものは自然の過程の中にあるだけだ. その物化する計算機自然の中で無為自然になりきるデータに一体化しようとする自己から零れ落ちるものを探している.
落合陽一
XXの風景(鳥Ⅰ)
擬態によって変換される風景を眺めている.
昆虫の体色は捕食者の視点の変換かもしれない.
海の波は魚の体表に切り取られ, 鳥瞰視点は昆虫の体表に切り取られる. チューリングパターンなどの数式表現から見られる擬態が計算と自然と風景, 主体と客体をつないでいる.
落合陽一
Ⅵ 質量への憧憬
デジタルから見た質量への憧憬の中に囚われて2年ほど, いつの間にかコロナ以後の世界ではデジタルコミュニケーションによって皆が質量への憧憬の中にいるような気さえする. こうやって物質や風景やイメージの中で記憶や存在への旅路をめぐって, 自然と対峙するいくつかの対立軸で残ったところにあるものが, データになりきらない身体性や, 動物性を内包する自分自身の質量への憧憬であることを再認識しながら, 未知への追憶の中に風景論を今日も編む.
落合陽一
音と質量Ⅰ
質量に保存する, 制約を与える, 有限の存在にする. 物理的制約のないデータの世界と制約ある質屋の世界の越境を繰り返した末に, 存在が物化を繰り返せる可能性を意図的に要失させる. 質量のある装置はやがて壊れ, 質量のない装置はやがて忘れられる. 物質の制約から自由になったデータに有限の身体を与え直す作業に集中すデジタルの世界とアナログの世界から切り取った有限性のあるメディア装 電の箱庭を作る. 別離への可能性を孕む存在になったデータは愛おしい. この有限性を与えることへの偏愛を味わうために, やがて壊れゆく形にデータを記録するメディア装置を蒐集家の目線で眺めていたい.
落合陽一
コロイドディスプレイ
物質と映像について探求を続けている. 東京の街並みと空を背景に青く輝くモルフォ蝶が浮かんでいる. シャボン膜の表面に朧げに映し出される物質的な映像は, 超音波振動によって透明な薄膜を振動させて得られる拡散状態と映写機の光によって表現されている. 物質的で不完全であるが, 有機的に輝く胡蝶の像だ. シャボン膜のような透明な薄膜は光が透過するため, 映像を投影することができない. 超音波でその光を高速に拡散している. この作品は触れれば消えてしまう物質的な脆弱性と, 薄さ1マイクロメートルに満たない薄膜の上で超音波振動と光の出会う場所でのみ描かれるという特殊性の上に成り立つ. 映像という音と光によるメディアを再考し, より物質性を持った映像表現への探求. 反射と光, 低解像度と高解像度, 液体と個体, 透明と拡散, 物質と映像の間をまたがるメディア. 幽玄や山紫水明という美意識, 微かなことと確かなこと, 高解像度と低解像度のギャップに美しさを見出す我々のメディア意識は平安中期から継続しているかもしれない. 儚いもので作られている鮮明な表現を望んでいる.
落合陽一
追憶の代理機械
映像的な追憶を装置に任せたいと思うことは現代の日常だろうか.
落合陽一
追憶の代理装置
身体的な追憶を装置に任せていたいと思うこともある. 反復性を機械へと任せて, 記憶を漂白する.
落合陽一
写真
ポスト工業社会に向けての祈りの形. デジタルから見た質量への情憬. オーディオビジュアルの波の向こうの神殿.
人は社会的でありながら, 祈り, 願い, 日々を生きる. その様子が質量を持ったときに, 畏怖が生まれると思う. 吉運のくじは運ばれていき, 凶運のくじが願いとともに結ばれる.
(2019)
東京という都市に着火された光
(2019)
コメント
Ⅶ 共感覚と風景
森羅万象を計算機の軸で見た世界に生まれる一体感をどうやって表現するべきだろうか, 共感覚という言葉は感覚と感覚のシンクロを指す言葉であるけれど, 我々の意識が計算処理するプログラムに過ぎないならば, 意識が風景 と一体化するような感覚それ自体も共感覚と呼ぶことができるのではないだろうか. そうやって見える風景と感覚のシンクロする地点を探している. 自我なく自然と合一化し, 物化に身を任せて時間と空間を変換し直して, 世界に溶けてしまうような瞬間を求めて, 開発や研究や表現を続けながら, 風景の中を彷徨っている. 常に未知なる何かを求めながら.
落合陽一
コメント
借景, 波の物象化
コメント
人と時間
物化の過程Ⅰ〈フレームからの漏出〉
反射のほぼない黒色に潜む, 映像の余白や可能性が物質性を伴ってフレームの外へ漏出する妄想に駆られる. 見えぬものの可能性とフレーム外の映像, そして物質への変換過程の幻覚を瞬間で切り取り, 静止状態で物質世界に固定する.
落合陽一
ゾートログラフ
「ゾートログラフ」(ゾートロープ + キネマトグラフ)は, 運動彫刻からの運動する映像を生成する物理的に回転するプロジェクター. 古典的な ゾートロープを三次元造形に拡張したアニメーションする運動彫刻がある. それが円環状にプロジェクタユニットに挿入され, 回転テーブル上の動く三次元像から複数のレンズによりいくつかの二次元映像が生成され る. 3次元の世界からいくつもの視点の 2 次元の映像コミュニケーションを生成する, この構図は映像メディア的な動作構造を持ち, 我々の社会を映像社会を批評し, 映像と物質の関係性を円環構造によるインスタレーションで表現する. この装置が置かれることで, 映像と物費の相転移は, その溢れる光と影によって空間自体を演出し, 映像と物質の関係性に, 周囲の人・もの・空間を挿入する. 二次元の網膜を持つ我々は三次元に生きつつも, どこか二次元への憧れを捨てきれない. そのパースペクティブ変換への憧憬.
未知への追憶
落合陽一さんの個展でした。
やっぱり理解するのはとても難しいですけど、そのヒントを色々とくれたり、単純に眺めて写真を撮るだけでも楽しめるような個展にしてくださっているところが、本当に有り難いです。
また、展示会場は渋谷モディの改装予定フロアを利用したもので、準備期間には制作の作業場にしていたらしく、あちこちに落合さんの手描きメッセージが残っていたのもちょこっと嬉しくなるポイントでした!
お土産。
落合さんの個展に足を運んだ2020年8月23日は、他に別の展覧会にも行ったので戦利品が混ざった写真ですが…。
中央に置いてある、小さなステッカーと丸窓のポストカードが落合陽一個展のお土産です。
読んでくださり、
ありがとうございます!
これからもよろしくお願いします!